初心者ブログ

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二極化と家庭教育の重要性

Nやゼロ高が登場し、

これからどんどん教育が変わろうとしています。

以前はゆとり教育が行われ、世間的には失敗のようなイメージで終わりました。

しかし今、若手起業家などで日本を引っ張っていっていこうとしているのは、その世代でもあります。(まだもう少し上の世代が力を持ってる印象もありますが、)

 

ゆとりとは、つまり自由な時間がある。

脱ゆとりに国は舵を切ったけれど、自由や多様性への流れは止められないなかで、脱ゆとりの詰め込み教育に洗脳され考えられなくなった子どもと、学校ではなく時代の流れに沿った子どもとで大きく二極化されていくと思います。

 

洗脳というと言葉は悪いですが、つまり思考能力を削ぎ取られた子ども。

彼らは生きるのに苦労するし、運が良くないと生活に充実感が得られない。

そこから苦労するのに疲れて考えることをやめる人と、時代の流れに乗ろうともがく人とにも分かれていくと思いますが。

 

高校を選ぶのもそうですが、

従来の学校に入る際には、既に時代の流れに乗った子どもに育っていないと辛いと思います。

これまでは教育に不満があれば学校の責任という感じでした。

でももう、学校が張り切って育てあげた子どもは、工場的人間か人生の充実感に悩む人間かにしか育たない。

より親を含めた家庭教育が重要になると思います。

 

学校より学外、授業より趣味、

すこし極端かもしれませんが、授業で教わる知識を自分の趣味や好きなことでかみ砕けるように育てていかないといけません。

これは親の責任になる。

 

僕は完全なる知識詰め込み教育を受けましたし、教師にも反抗せず、ひっそりと学校生活を送りました。

その反動というか、なんというか、

それがいまきている感じです。笑

 

家庭教育の重要性しかり、

様々なことが低年齢化しつつあります。

その様々なことに対応できる子どもを育てるためにも、小学校から変わっていくことが求められるのかもしれません。

教育に刺激 思いつきを形にしてみたい

この前の平成最後の夏期講習を見て、ふと思いついた高校生のインターンシップ

少し調べるともうやってるとこも多いみたいですね。

でも思いついたので、ぜひこの際形にしてみたい。自分でなにか立ち上げたことがない文系出身の会社員ですので、アドバイスや協力してくれる人をぜひ見つけたいです!

 

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思いついたのはこんな感じ。

手書きかつ具体性の欠如が目立ちますが、、

シークルという名前はテキトーです。好きなことを追い求める感じでseekを入れただけです。笑

 

高校生だけでなく、教員、学校へのアプローチをしたいです。

高校生へはインターンシップの情報やセミナー提供。インターンシップ後はそれをレポートや論文にして、学校での単位やAO入試での活用などに繋げられる状況になればより良いと思います。

 

同じように教員に対してもインターンシップのようなものを行いたい。

社会経験の未熟な彼らに対し経験や、自分たちの専門知識が実際に社会でどのように扱われているかということの再確認にもなると思います。

教員へのセミナーは情報提供というより、社会をより深く知るためのサロン的な意味合いです。

学生とは違い、参加費などは負担してもらうことになると思います。

 

そして学校に対しては、そこと提携していく。

私学と提携して、インターンシップの斡旋や特別授業の実施、また企業の第一人者と関わる機会を設けるなど、より深く関わっていきたい。

学校だけでなく、企業の人間もより高校教育に関わり影響を与えていくことが可能になると思います。

 

高校生を即採用する企業は少ないし、企業側のメリットは少ないんじゃないかとも思いましたが、

考えるのが億劫になったので一時棚上げしています。笑

もちろん宣伝効果にはなると思いますが。

 

教育の側面が強いと、NPO法人などが多いのが実際です。ただ僕はそうではなく、利益も求めていきたい。

それはもちろん自分が働くからにはということもありますが、これからはより探求して、より機会を求める人とそうでない人が大きく乖離していく時代です。

利益を求めないのではなく、利益を出すために、その環境でも需要があるコミュニティや組織を作ることが、教育により大きく還元できることに繋がると思います。

 

かなり雑な案であり、

平成最後の夏期講習での宇野常寛さんや川上量生さんの話を聞いて思いつきたて、という感じです。

ただ何かしら行動に移したい。

批判的な意見も含めたアドバイスや、それは協力してみたいなどという方がいればご連絡よろしくお願いいたします!

集団による自主性の危うさ

よく学校の部活動は、人間性や自主性を養える場と表現されます。挨拶や整理整頓が徹底されて、自分たちで考えて率先して動く集団が作られていく。

でもこれは、勘違いであることが多い気がします。

 

例えば高校の部活動では当たり前にしていた礼儀作法を、卒業してからはしなくなる。

これは単に顧問、あるいは集団の圧力によって行われていた活動に過ぎないということです。

その行動の過程には、各個人が頭で考えるということが抜けている。いわゆる授業や学級活動などと同じように、集団の中で正しいとされているから実行しているというだけです。

 

そういう集団を見て教員は、人間性や自主性が養われたと判断しますが、

言ってしまえばそれはただの青春の1ページとして完結しています。将来の酒のあてにはなっても、将来の役には立たないことが多い。

だから体罰などを行う強権的な教員は教育という観点において無意味だし(集団作りという点では効果を発揮するかもしれませんが)、生徒の自主性を育むようにある程度放任する教育も、個人の教育という点では無意味かもしれない。

 

社会人になってよく周りの人に

あるスポーツをずっと続けてきたと言うと、感心されることがあります。

でも続けることは割とたやすい。特に集団の中では。

あんまり何も考えずに集団に属していれば、勝手に続きます。笑

 

みなさんあひるの空って漫画知ってますか?

そのなかで千秋という登場人物が、続けることも大変だが辞める決断をすることのほうがもっと勇気がいる、的な発言をしてます。(曖昧ですいません、ニュアンスは合ってるはずです、、)

それは自分の頭を使って考え、決断している過程があるかどうか。

続けることはその過程を踏まなくとも可能だけど、辞めること(次のなにかを始めること)はその過程が必要不可欠です。

だからこそのこの発言だと思います。自分の頭で考えることが大事なんです。

 

日本では割と続けることが美学とされる。

スポーツや習い事も、会社の勤続年数も、

長ければ長いほど良しとされて、人間的に評価される。

でもそれは評価軸が間違ってます。

辞める人間を冷ややかな目で見るのも、すごい前時代的。

もちろんなにかを続けることを否定しているわけじゃなくて、その行動を取る過程の思考がより重要なんです。

 

集団教育というのはしばらく終わらないでしょう。そのなかで評価軸や、生徒が各個人で考えるということについて再思考しなければ、今の教育が唯一与えられるかもしれない人間性や自主性という要素までも失われると思います。

というかもう失われてる気がします、、

養われているのはほんの一部の生徒。元から自分で考え判断できる生徒だけです。

 

社会に出てその生き方が染み付いていると、

これから個人で判断して生きていく時代、より苦労します。

教育のシステム自体に難ありという感じですが、まずは生徒の見方や育て方を考えてみて欲しいです。

平成最後の夏期講習を見て

こんにちは。

表題の通り、落合陽一と小泉進次郎が企画したこの講習をニコニコ動画で拝見しました。

そこで教育・コミュニケーションのディスカッションを見て再確認したことは、教育が変わる(終わる⁇)ということ。

 

これまでは工場などに代表されるように、集団の中で規律を守り働くことがベースでした。それは今の教育にマッチしていて、国が今の形を作ったわけですが、

これからはもうその形は失われる。

それに加えて国の影響力も落ち、個人が個人として、あるいはチームとして生きていくことがベースになるはずです。

 

ただ教育というのはあくまでも国主導。

国への帰属意識の低下や、そもそも国を超えて生きていく時代になったにも関わらず、国の息のみがかかる教育に大きな変革や未来はないかと思います。

高校生以上の子どもは学校に所属しながらも、その外で刺激や大事なものを見つけていくが大事になるかと思います。

 

また今までは集団や対人関係の気づき。コミュニケーション。そういったものに学校は唯一意味があるような感じでした。

ただこれも、もう効果が薄い気はします。

歪んだ関係が逆に子どもの可能性を潰したり、集団でいることで個性が潰されたり。

社会に出て集団で生きていくということが普遍的でなくなるこれから、集団教育というのも害の部分がより大きくなるかもしれません。

 

政治家がこの講習にも参加しているように、少しずつ教育の枠組みは変わっていくとも思いますが、もうそこは大きな問題ではないです。

制度として全体を変え子どもを育てていくというのは、個人として生きていく要素が強い時代に集団教育の時点で限界がある。

 

そういう制度に対して、

外部からどれだけ刺激を与えられるか、に懸かっているのではないでしょうか。

それは子どもに対しても、教員に対して、です。

 

例えば教員に対してのセミナー。

今は教科の教え方や学級作りにフォーカスされたものばかりですが、社会の動きやこういった講習を学ぶことが、教員の意識変革に繋がるはずです。

 

子どもに対しては、

既に日本の子どもはネットにアクセスして、情報を無限に集まることができます。スマホなどが制限される学校も多いと思いますが、そこをもっと解放していくべきでしょう。SNSやゲームが使用用途の大半を占めているかもしれませんが、その中から子どもが見つけられるものもたぶんあります。

 

また僕は高校生のインターンシップを拡充していきたいと感じました。

現在も職業体験などはあるようですが、あくまで単純作業の体験。(僕は体験したことないので、想像の部分もありますが)

 

これでは好きを深められないし、見つけられない。社会見学ではなく、本当に好きな子どもが好きに没頭する。興味ある子どもが、本当に好きになる。そんな空間を学校ではなく、周りが提供していかなければいけない。

 

そんなことを強く感じた講習でした。

議論のスピード感や、落合陽一のまとめ方。あくまでプラス思考で未来を見据えていく感じ。また見たいですね。

 

新たな高校の形

堀江貴文さんが、新しい学校を創るそうですね。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000035825.html

 

うーん、、おもしろい。。。

これまでの座学中心ではなく、社会体験型。教育変革が必要と考えていた僕にとっても、羨ましい学校です。(まだ実態は細かく把握できていないのですが、)

今の高校生も、今の時代がこれまでと違ってきていることは肌で感じていると思います。

そういうなかでこの新しい、社会に即した学者・体験ができるというのはモチベーションになり、自分を知ることに繋がるのではないでしょうか。

 

ただステレオタイプの教育しか受けたことがない人間からすると、そのいわゆる「古い教育」も残しておいて欲しいな、と。

自分の過去を肯定したいだけかもしれませんが、クラスという集団で生活したからこそ得た経験や知識、人間性は必ずあります。

一つの授業だって、通信制のように簡単に済ませることはできますが、うまく現代の流れと古い教育をミックスさせる。

それが僕の今の理想であり、求めることです。

通信制などに深い見識がないので、既にそうなっているかもしれませんが、、

 

ただこれから、この堀江さんの学校のようなスタイルは徐々にでてくると思います。

公立学校がどこまで当たり前になるか、当たり前という言葉がいつまで続くか、わかりません。

そこでは大きく学習指導要領というものも見直さなければならなくなると思います。

 

今の時代に合わせて新しく学習指導要領が公布されてますが、それが実施されるのは2020年。

あまりに遅いし、実施されたとしても始めは教員も手探りでしょうから、慣れてきた頃には世間は次のステップに進んでいるかもしれない。プログラミングも、学生にとっては習うまでもないという域に達するようになっているかもしれません。

 

学習指導要領ももっと選択の幅を持たせて、

各学校が特色ある授業を展開していくべきでしょう。

偏差値ではなく、その特色により学校を選ぶほうが幾分健全だと思います。

もちろんそのためには、どの学校でも行うしっかりとした共通の教育内容を策定することや、大学入試をより柔軟にしていく必要性はありますが。

 

その変革の一端が、起こり始めています。

通信制の高校、と聞くとこれまではあまりイメージが浮かびませんでしたし、なにかしらの事情があったのかなと考えることもありました。(正直少なくとも僕にはありました、、、)

しかしそのイメージが変わるのも時間の問題。

仕事も学校も、より個に応じたものになりそうです。

後悔を乗り越えるための人生

みなさんは、人生で後悔していることはありますか?

僕はそんなことだらけです。

いや、後悔というと語弊があるかもしれませんが、過去の人生の岐路を振り返って、別の道を選択した場合を考えてしまうことが時々ある、という感じです。

 

学生時代の進路や就職、その後においても、人生の岐路だと感じる場面は幾度かありました。

その度に僕は、親の意見や社会的な正解(そんなものがあるのかは分かりませんが、)ではなく、将来振り返ったときに絶対後悔しない選択をしようと心がけてきました。

それでも、こんな感じです(笑)

 

結局後々になって、以前選ばなかった道を選択し直したり、真っ直ぐ進めばもっと早く通り過ぎていた道に今もいます。

その寄り道が良かったか悪かったかは分かりません。もちろん時間的に無ではないので、必ず何かしらの意味づけはできます。

 

しかしここで重要なのは、(これからも重要になるのは)そんな過去を未来の自分に映し出すことだと思います。

ただ昔の人生の岐路を振り返ってああだこうだと想像しているのでは、過去にとらわれているだけでなんの生産性もない。

ああだこうだと感じたことを、自分の将来の方向性にしたり、これからやるべきこととして捉えることで、現在の自分に目標が生まれなにかしらの生産性がでてくるのではないかと感じています。

 

もちろん社会的に成功している人はそういう経験は少ないかもしれませんし、比較的僕はそういう経験は多いので、自分の経験に意味づけしているだけかもしれません。

そしてそういう経験が多いということは、自分を知ることができていないともいえます。

したいこと、好きなこと、将来のビジョンが上手く描けていないからこそ生まれる弊害と考えることもできます。

 

しかし、多感な時期である過去に戻ることもできませんし、そう簡単に自分の軸を見つけることもできません。少なくとも今の僕には一番大きく、難しい問題です。

そして、同じような経験をされている方も多いのではないでしょうか。

あのとき後悔しないように選択したのになー、、と。

 

だからこそ動かすことができず、とらわれてしまいがちな過去を上手く未来に昇華して、現在の自分を奮い立たせる必要があると思います。

 

これは思考的な問題ですし、根本の解決に至るかは分かりませんが、、

みなさんも一緒に、これからも続く後悔をうまく利用しながら生きていきましょう!

マルチナ、永遠のAI。

大村あつし著の「マルチナ、永遠のAI。」を読みました。

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AIが日常に浸透し、AI特区やそれに伴う開発、人間との関係性が描かれており、AIについて詳しくなくとも違和感なく近未来(というより数年後)の世界をイメージできました。

 

物語の内容自体は個人的に、そこまで引き込まれるという訳ではありませんでした、、、

ただこういった内容を違和感なくイメージできるということは、現在の社会がどんな人にとってもAI化に向けて進んでいるということです。

 

そうしてディープラーニングが進み、AIが自動的に学習するようになると、AIの人格や人権など次の問題がでてくるような気がしました。

また少子化が進むと、子どもへの教育というよりもAIへの教育、AIに対する教師という役割も現れるようになるかもしれません。(これについては本書で少し述べられていました。)

 

AIと人間を分けるのは、肉体として存在しているか否か、だけになるのでしょうか。もちろん感情もそうですが、ディープラーニングが進めばAI自身がそこに興味を持ち始めるかも、。

 

本書を読むと、専門書などを読むよりも

より身近にAIを感じることができるのではないでしょうか。

その想像力を膨らませながら、AIに関わらない人や学生も、これからの時代に必要なことを考えてみるというのも大事だと思います。