日常を捉える スポーツから社会へ

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集団による自主性の危うさ

よく学校の部活動は、人間性や自主性を養える場と表現されます。挨拶や整理整頓が徹底されて、自分たちで考えて率先して動く集団が作られていく。

でもこれは、勘違いであることが多い気がします。

 

例えば高校の部活動では当たり前にしていた礼儀作法を、卒業してからはしなくなる。

これは単に顧問、あるいは集団の圧力によって行われていた活動に過ぎないということです。

その行動の過程には、各個人が頭で考えるということが抜けている。いわゆる授業や学級活動などと同じように、集団の中で正しいとされているから実行しているというだけです。

 

そういう集団を見て教員は、人間性や自主性が養われたと判断しますが、

言ってしまえばそれはただの青春の1ページとして完結しています。将来の酒のあてにはなっても、将来の役には立たないことが多い。

だから体罰などを行う強権的な教員は教育という観点において無意味だし(集団作りという点では効果を発揮するかもしれませんが)、生徒の自主性を育むようにある程度放任する教育も、個人の教育という点では無意味かもしれない。

 

社会人になってよく周りの人に

あるスポーツをずっと続けてきたと言うと、感心されることがあります。

でも続けることは割とたやすい。特に集団の中では。

あんまり何も考えずに集団に属していれば、勝手に続きます。笑

 

みなさんあひるの空って漫画知ってますか?

そのなかで千秋という登場人物が、続けることも大変だが辞める決断をすることのほうがもっと勇気がいる、的な発言をしてます。(曖昧ですいません、ニュアンスは合ってるはずです、、)

それは自分の頭を使って考え、決断している過程があるかどうか。

続けることはその過程を踏まなくとも可能だけど、辞めること(次のなにかを始めること)はその過程が必要不可欠です。

だからこそのこの発言だと思います。自分の頭で考えることが大事なんです。

 

日本では割と続けることが美学とされる。

スポーツや習い事も、会社の勤続年数も、

長ければ長いほど良しとされて、人間的に評価される。

でもそれは評価軸が間違ってます。

辞める人間を冷ややかな目で見るのも、すごい前時代的。

もちろんなにかを続けることを否定しているわけじゃなくて、その行動を取る過程の思考がより重要なんです。

 

集団教育というのはしばらく終わらないでしょう。そのなかで評価軸や、生徒が各個人で考えるということについて再思考しなければ、今の教育が唯一与えられるかもしれない人間性や自主性という要素までも失われると思います。

というかもう失われてる気がします、、

養われているのはほんの一部の生徒。元から自分で考え判断できる生徒だけです。

 

社会に出てその生き方が染み付いていると、

これから個人で判断して生きていく時代、より苦労します。

教育のシステム自体に難ありという感じですが、まずは生徒の見方や育て方を考えてみて欲しいです。