災害は誰のもの
今年はおかしい。
関西に家族がいるし、すごい不安にもなった。でもそれも過去形。
北海道に知り合いはいない。僕の不安は、もっと一瞬で終わってしまう。
今、すぐ近くの中国で災害が起こったとき僕は不安を感じるだろうか。
災害が起こると寄付とか、ボランティアにすぐ動く人がいる。偽善と言われることもあるけど、本当に正しいのはどっちか。
東日本大震災が起こったときもそうだった。テレビに映る津波の映像。息を呑んだけど、それだけ。学生だった僕は、二日後にはそれしか映らないテレビにウンザリした。
災害は、いつ自分ごとになるのか。
西加奈子の小説。
こういう大災害が起こったとき
なぜ自分が生き残ったのか、自分の存在は何なのかについて頭を大きく悩ます登場人物がいる。感受性が豊か、感じやすい、優しい人。
なんか自分を否定されているような、そんな感覚になる。
それは被災者でも同じかもしれない。
電気・ガス・水道。当たり前のインフラがストップすると、そこに大きな不便を感じる。ケガ人や死者がどうこうというより、その自分の置かれた状況を悲観する。
電気がつけば、「やっとかー!」そんな声を上げている様子が報道される。相対的不幸。
学生のときは世界が狭かった。
学校で収まる世界。そこから赤の他人を慮ることは難しい。
社会人になると、利益でしか繋がれなくなる。
災害が起きると、あそこのセンターは大丈夫かとか、出荷はできるのかとか。
僕らの世界は狭くて、数字を通してしか広がれない。
人の気持ちを理解するのは難しいけど、慮ることはできる。でも、できない。数字の気持ちを考えることはできない。
この災害がもし東京で起きたら、とか。
いやそれを考えることはすごい大事だけど、メディアでそういう語り口で報道されることは、すごい数字でしか物事を追っていない。
東京なら被害はこれだけ増えて、死傷者がこうなる。
数字の世界。
どうやったらそこから抜け出せるのか。
いや抜け出すことが正解かは分からないけど、
抜けださないと、永遠にこのループになる。
結果として被害の数字は増えるし、災害が起こるたびにインフラの欠点が騒がれる。
この異常な災害に見舞われた2018年。
災害の捉え方を、各個人が見直す年にしたい。僕も。