初心者ブログ

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哲学か、勝利か

サッカー日本代表パラグアイ戦が終わりました。

僕の率直な感想としては、面白かったです。4-4-2(4-2-3-1)は攻守で結果と内容は出せたんじゃないですかね。岡崎と武藤のツートップとかもありかな、と。

またW杯直前ということもあり、スタメン10人を変更されるとコロンビアはスカウティングも厄介なんじゃないでしょうか。

このカメレオンスタイルは一発勝負の舞台では活きる可能性があると思います。

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ただ、個人的な意見としては、

一発勝負で勝つことよりも、日本としての哲学が欲しい。日本はこういうサッカーをする、こうやって戦う、その姿を世界の舞台で見せてほしい。

そういう点でも前回のW杯は期待が持てました。自分たちのサッカーをすると選手が豪語し、自信に溢れている。結果は最悪で、選手たちの言葉も虚しくなりましたが、、、

もちろん自分たちの哲学を持ちながら、試合の中で相手に合わせることは重要な要素です。特に今のサッカーは戦略や情報が活かされますから、対応力が求められます。ただ大切なのは、哲学があるかないか、だと思います。

 

しかし今回は、直前に監督が変わり、哲学が失われ、その先に見つけたカメレオンスタイル。この4年間の親善試合や代表のトレーニングはなんだったのか、と感じざるを得ません。(もちろんW杯に出るためではあるんですが、)

日本のサッカーの土壌を作るのが日本代表であるはずなのに、四年に一度の本番だけを見据えた戦いは、相反する気もします。

 

最近では教育現場においても、勝利至上主義への批判的態度が顕著になっています。体罰の助長や学生の育成に繋がらないからです。

しかし彼らが目にして憧れるのは、勝利至上主義の世界。プロスポーツと学生スポーツを繋げること、逆に切り離すことはどちらも難しいですが、代表選手などのプロスポーツ選手も教育の一端を担っているという意識は少なからず必要かと感じます。(例えばファールをアピールしたり、審判に文句をつけたり)

 

代表選手はプロです。試合に出て、アピールして、勝つことが仕事です。

勝利よりも哲学を大事にする、というのは確かに矛盾することかもしれません。

また選手をチームの哲学に当てはめることも同様です。ナンセンスな部分もあります。

 

ただ、こうしてW杯直前でのカメレオンスタイルを見ていると、4年間のプロセスがまるで見えない。

観ている側としては、入り込み辛いものがあります。スポーツビジネスという側面においても、哲学を持ち続けてW杯への過程を大事にするというのは必要かもしれません。

 

哲学か、勝利か。

正解はないですし、これはあくまで個人的な見解です。ただサッカーファンとしていつの日かそういう代表も観てみたいと思います。

 

とりあえず!

あと2日でW杯です。日本代表には頑張って欲しい。(散々批判的なことを書いてあれですが、)

みなさん盛り上がりましょう。

自分自身の哲学を持つ

みなさんはどのような哲学(ポリシー)をお持ちでしょうか。

生きるための目的、と言い換えてもいいかもしれません。

 

今日友達と話していて出た話題でもあります。日本は様々な部分で恵まれていて、それでも苦しみながら働いている人が大勢いる。その人たちの哲学はなんなんでしょう。

お金を稼ぐこと。

では稼いだ先になにがあるのでしょう。これから先どんどんお金の価値はAI化で落ちていくと思います。稼ぐ目的はなにかをはっきりさせないと、形骸化した人・企業になってしまうのではないでしょうか。

 

僕は、子どもの教育を改革したい。

ここにいま現在具体的なビジョンはありません。(すいません、、)

ただ社会で揉まれるいま、言葉にして、自分の哲学を明確にしておきたいと考えています。惰性で続ける仕事には意味があります。ただ、無意味なことも多い。

 

今の教育は、かなり宗教的です。(これは企業でも同じかもしれません)

教師の良しとしたことが正解、スポーツで結果を出せれば正解、勉強ができれば正解、など、学校内での正解が子どもたちの全てになっているような気がします。実際多くの教員は学校現場しか知りません。その人の良しとする姿を目指す環境にも違和感を感じます。

 

だからこそ、学校から解放かれ、神聖視していたものがなくなると、子どもたちは途方に暮れます。無限の可能性があるはずなのに、学校を出た途端にずいぶんと自分の選択肢が狭くなったような気がする。

 

ここに学校外から刺激を与えられないか、子どもを宗教的な学校から解放できないか、そしてそれが教育を変えるきっかけにならないか。それが僕の哲学です。子どもたちに、自分の人生に自信を持った生活を送って欲しい。(ざっくりし過ぎていますね、、ここから先この内容を詳細まで詰めれるかが大事なのですが)

 

みなさんはどのような哲学を持って働かれていますか??

もちろん今までと変わらず平穏な日々を送りたい、というのも大事な哲学です。ましてや僕はいま言葉だけで行動が伴っていませんので、ぐうの音も出ません、、

 

ただここがブレると、これから多様化する社会でどんどん取り残されていくように思います。

新幹線での無差別殺傷事件など、テロのような事件が相次いでいます。それらもこの哲学が欠けることで、社会から取り残されたような感覚を味わったことが一因として挙げられるのでは、と感じます。

 

先に書いたブログ「なにを信じるかの時代へ」とも重複するところは多いですが(内容が似ていてすいません、、)、多様化する社会で、自分の哲学を持つことはなによりも重要だと思います。

 

死と隣り合わせの公共交通機関

こわいタイトルになりましたが、

実際に新幹線での無差別殺傷事件という凶悪な犯罪が起きました。今回は新幹線ですが、これは普段のバスや電車でも起こり得る、そして防ぐことが難しいものだと思います。

 

セキュリティ強化が最も実現可能な解決策ではありますが、なかなか難しいのが現実だと思います。利便性や収益、労働力を考えたときに、全ての公共交通機関で実施するのは不可能です。

ただ、命に勝るものはありません。

 

時代が進めばAI化により、よりスムーズな持ち物検査等が可能になるはずです。時間はかかるかもしれませんが、必ず実施すべきだと思います。

もちろん今のような利便性、また時間通りの運行は難しくなるかもしれませんが、。

 

また人間ではなく、ロボットによる警備を急ぐべきではないでしょうか。

不審な動きをした人物や、刃物等を感知できるシステムが搭載されたロボットが、電車の各車両に配置されなければいけないような時代になったと感じています。

 

僕はこれから、このような凶悪な犯罪は増えると思います。

国際化や格差の広がり、生活の多様化が進み、社会から取り残されたという感覚を持つ人も少なくありません。そのときに感じる感情は人それぞれで、どのような行動を取るかは一概に言えませんが、凶悪な犯罪に走る人は過去の事例からも多いと思います。

 

またAI化の発展もこのような犯罪に寄与する可能性があります。

VRにより、仮想現実の世界を簡単に楽しめる時代になりつつあります。仮想現実の世界ではなんでもありです。将来、現実と仮想現実の区別が徐々につかなくなっていく人がでてくる可能性もあります。

仮想現実にいる感覚で、現実世界で他者を傷つけてしまう。そんな世界も、AI化が進めばあり得ます。

 

それを防ぐのは、同じくAI・機械しかありません。AI化により、あらゆる危険を感知して、防ぐ行動力を持ったロボットなど、危険と同時に安全を僕たちに提供していく必要があります。

 

テロなどを含め、予測不能な事件が僕たちを危険に晒すようになりました。

AI、ITなどの発展が進みますが、あらゆる角度から僕たちの日常を守り、豊かにしていく開発が行われていくことを願います。

 

亡くなられた方のご冥福をお祈りします。

働き方を変えるのであれば、教育を変えないと意味がない

働き方改革の法案が参院での審議に入りましたね。残業時間の制限などが大きな柱ですが、僕の感覚としては、なにも変わらない気がします。

企業数では99%が中小企業といわれていて、僕自身もそこに含まれます。最近では定時に帰る日を設けたり、長すぎる残業は上司から注意を受けます。ただそれは労働時間の増減に繋がっているわけではなく、ただ仕事を家に持ち帰っているだけです。周りの企業の方に聞いても、そのような感覚の人は多いですね。

 

実際に働き方を改革できるのは、いわゆる大企業と呼ばれる企業だけではないでしょうか。体力・人員・競争力のある企業だけしか、改革することは難しいと思います。

実際の中小企業では(僕の感覚ですが、)、会議が多くて提出物が多くて仕事自体も多くて、残業が当たり前の感覚です。

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ではどうすればいいか。

僕は「働く意識を変える」、「教育を変える」ことが重要だと思います。

 

働き方を変えることはとても難しいです。

長年かけて積み上げてきた泥臭いスタイルをリスクを負って変えるというのは、体力のある大企業にしか難しい。

だからもう働き方は放っておきます。代わりに働く意識を変える。ワークライフバランスと叫ばれる時代ですが、ワークとライフを可能な限り近づけます。どれだけワークに時間を割かれても、逆に働きたくてもなかなか仕事に入れなくとも(働き口やプライベートの問題でライフの時間が長くなっても)、両方が連動しているので苦にならない状態です。

好きなこと・趣味を仕事に、というのはなかなか難しい点もありますが、仕事ができるようになればそれが徐々に好きなこと・やりたいことに変わり、ライフが満たされていく。そこを目指すしかないのではないでしょうか。(ただ健康を害したり、度を超えた残業は当然だめです。)

 

そしてもう一つは教育を変える、ということ。

既存の企業が変われないのなら、スタートアップに賭けるしかありません。

今の時代に起こる企業は、時代が反映された、いわゆる改革された企業です。それらのスタートアップの企業が力を持つことで、自然と働き方改革に繋がります。(そしてそういう企業では働く意識改革も起こるはずです。)

スタートアップに賭けるには、これからの若者を育てるしかありません。いわゆる平均的な人間を育てる今の教育から脱皮して、多様性と専門性に富んだ人材の育成が求められます。

 

それらに対していろんな法案がいま国会で審議はされています。働き方とか、教育無償化とか。良いことだとは思います。

でもそれらは、お金とか時間とか、そういう表面的なことしか話し合われていません。彼らがどういう想いで議論しているかはわかりませんが、問題は国民の意識のなかにあると思います。(当然意識に関する議論はできませんが、、)

 

根底にある考え方や意識が変わらなければ、意味がありません。(実際僕もなかなかそういう考え方はできていません、)

働く意識と教育を変えて、より自己実現に繋がる社会になるには、もう少し時間がかかると思います。

すいません、喫煙者を助けてください

最近では喫煙者の肩身がずいぶんと狭くなっています。喫煙場所は会社の外、飲食店でも禁煙、外食するときは味ではなく喫煙可能かどうかを判断材料にすることも多いです。

周りへの悪影響を考えると、当然の流れといえば当然なんですが、、

ただ自分が喫煙者なもので、少し辛い思いをすることもあります。

 

特にいまは、東京オリンピックという大義名分を得て、飲食店でも全面禁煙という流れが加速しています。こういうときの流れというのは本当に速い。

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ただ無くなれば価値が出てくるのが今の世の常だと思います。機械により大量生産された製品が出回れば、個人に特化したり少しユニークな商品に多大な価値がつきます。

それがタバコという産業にももたらされるのではないでしょうか。

 

失われたのは「喫煙場所」、そして「多数性」です。だからこそ、この2つを満たす場所が喫煙者を虜にするかもしれません。

 

例えば喫煙場所では、タバコが吸えて空調が効いた部屋に座ることができる。ただその場所を提供するだけでお金を取れると思います。受動喫煙防止という面から失われた場所を、提供することには需要があるのではないでしょうか。(回転率や単価などを考えると大きなビジネスになるかは難しいかもしれませんが、)

 

また年々喫煙者は減り、多数性は失われ完全なマイノリティになりました。

タバコを吸うと言ったときの、喫煙者の上司の嬉しそうな反応はそれを如実に表しています、、

なので、喫煙者をマジョリティにしてあげる場所を作るのはどうでしょうか。いわゆる喫煙者限定のバーなどです。(法律などの観点からは大丈夫ですかね、、⁇)

これからさらに喫煙者・喫煙場所が減れば、タバコを吸っているということが、いわゆる共通の趣味を持っているというような感覚を与えるメタファーになるのではないでしょうか。

 

タバコ以外にも、時代の流れに乗ってあらゆる産業が発展・衰退を繰り返します。ただ以前にも何度も書いていますが、これからは多様性が求められる時代。

衰退した分だけ、発展の可能性が見出されていくはずです。

タバコ産業は衰退していくとは簡単には言い切れません。これまで無かったスタートアップが生まれ、タバコそのものではなく喫煙者に場所や環境を提供することで成り上がる可能性だってある。

それはどんな産業にも言えるのではないでしょうか。

 

僕の喫煙歴はそれほど長くないので、今の環境でも喫煙者としてなんとか生活できています。

ただ、これからはどうなるでしょう。

タバコをやめろと言われればもちろんその通りですが、、、

流れとともに衰退を見せるタバコですが、なにかが起こるかもしれません。喫煙者というマイノリティをターゲットに。

なにを信じるかの時代へ

最近では目に見えない個人の情報が企業を支えています。それを守るためにEUでは個人情報保護の新たな規制が設けられようとしています。

お金も仮想通貨へと変わり、実際に体験しなくともVRで仮想体験ができる時代になりました。

 

見えないものが、僕たちの生活を支えている時代です。

さらに進めば、現実を生きなくとも、生きていける時代になるかもしれません。

病気で寝たきりになっても、仮想体験を味わい続けることで自分が病気であるということも忘れてしまう。学校で友達ができないという人は、仮想体験のなかでたくさんの友達と話し、あそび、触れ合うことができる。

目に見えるもの・見えないもの、触れるもの・触れないもの、そのような境界線がなくなり、欲しいものは自分の中にインプットできるようになるのではないでしょうか。

 

そうなると次第にどちらが現実かわからなくなります。

現実を生きるか、仮想世界を生きるかはその人次第であり、もはやどちらがどちらかという定義はできなくなるかもしれません。(これは少し行き過ぎた話かもしれませんが、、)

 

そこで重要なのはもはや権威でも、お金でも、情報でも、愛でもないでしょう。なにもなくても、全てを手にできる。(もちろんその2つの世界を手に入れるためにはお金が必要かもしれません)

 

求められるのは、ただ信じることだけ。

自分にとってなにが重要か、なにが本当の世界なのか。信じたものだけを手に入れることができます。

f:id:naokingdayo:20180604222724j:image(パートナーがいなくとも問題ありません、きっと。)

 

これは少しSFじみた話ですが、実際に今でも物の価値観は大きく変わってきています。高価なはずだった物が安価で手に入るようになったり、逆に安価だったものに大きな価値がつくことも稀ではありません。

 

価値観にも多様性が見られるようになり、今のビジネスは大変です。(見方を変えれば無限にチャンスが広がっているという人も多いです)

デジタル化が進めばアナログなものに、大衆化が進めばパーソナルなものに価値が見いだされ、世間という言葉で語るのは難しくなってきています。

 

現在も同様に、なにを信じるかの時代だと思います。自分が価値を置くものを大事にして、選択する。周りの意見など意味を持たなくなっているのではないでしょうか。もはや周りの意見、というのもいわゆる少数派の意見である可能性だってあります。

 

IT化が進みより便利な世の中になっていきます。だからこそアナログな物を選択する人もでてくる。

流行はいったりきたりを繰り返し、昔の流行と比べ規模も小さくなっていくでしょう。

 

そのときに自分を信じるものを選択できなければ、時代に流されて人生が終わってしまうのではないでしょうか。

スポーツを繋げる

最近いろいろな本やニュースを見るようになりました。様々な情報をなにに活かすか、自分の核に繋げることが重要だと思います。

 

僕の核はスポーツ・教育だと考えています。

しかし僕がスポーツ無しでは生きていけない!子どもが大好き!というわけではありません。今の仕事はそれらに全く関係ありませんし、サッカー以外のスポーツはあまり見ません。

ただ学生時代にサッカーに打ち込み、教育系の学部に通っていたからです。学生時代に熱くなったものが自分の深いところに眠っていて、その周りを何かで覆っても消すことができない、そんな感じです。

だからこそ、教育は重要だと思います。子どものときに熱くなったものは、なかなか消えません。熱くなる可能性・多様性を、子どもに与えることが教育者の役割でもあり、正解のない課題でもあります。

 

僕はサッカーから離れ、社会人になるまで世間からあまり情報を得ていませんでした。(当然SNS等で大きな話題は流れてくるので常識的な部分は把握していましたが)

そして、興味もなかった。サッカーが上手くなればそれで満足でした。自分の日々の振り返りは、サッカーばかりでした。

 

今の学生にはそんな人がたくさんいるのではないでしょうか。もちろんそれは素晴らしいことだと思います。そのことしか考えられないほど何かに熱くなるということは、人にとって必要不可欠です。

 

しかし「子どものスポーツ宗教化」でも書きましたが、それを全てと思うのは勿体ない。

特にスポーツは、スポーツのことだけを考えることで完結してしまうことが多い。最近ではビジネスやAIがかなり関わってきていますが、それはあくまでトップレベルの選手の話。一般的な学生スポーツでは、各競技の選手はその競技のことばかり考えている、というのが普通ではないでしょうか。

スポーツに熱中する学生は、隔離されていることが多いです。

 

例えばビジネスでは、そのビジネスを成功させるために多くの側面から捉えることが重要になります。マーケティング、開発、技術、流通、など挙げればキリがありません。

仮にアイデアを考えた学生が、将来それをビジネス展開したいと考えたなら、多くを学ぼうとするはずです。

その多くの学びから、また別のアイデアや興味のあるものが見つかっていくでしょう。

 

だからいま僕は

学生スポーツを世間に繋げたいと考えています。(思いつきの部分が大きいので、若者がなにか言っている程度で読んでくれるとありがたいです、)

例えば高校サッカー。多くの高校やJリーグの下部組織の情報を管理して、定期的にあらゆる分野の第一人者に講演してもらったり。講演場所に近いチームの選手を、その講演に呼びます。

また講演等だけでなく、練習試合やフェスティバルも企画します。現在は地域の指導者が連携して大会を主催したり、それぞれのチームが個別に練習試合を行なっています。

もちろんそれでも成り立ちますが、教員が指導することが多い高校では、負担が大きい。チームの情報や、各チームが練習試合を入れたい日にちを一括で管理することでマネージメントを肩代わりする。

 

サッカー以外の部分を子どもたちに共有するという点においては、各分野の第一人者に講演をしてもらうだけでは影響力に欠けますが、

スポーツで子どもを閉じ込めてしまうのはなにか勿体ない気がします。

 

多くの子どもは学生の終わりとともにスポーツから離れます。

スポーツが宗教化された学生時代を過ごせば、かなりの確率でやりたいことが見えてこない。僕がそうでした。

早い段階で多くの分野に興味を持ち(それらをスポーツに繋げて競技について考えたりできると、より有意義な学生スポーツになりそうです)、自信を持って次のステージに進む。

 

僕の核であるスポーツ・教育に対して、僕がやってみたいこと・興味のあることをふわ〜っと考えてみました。

それは学校の仕事だろう、という声もあるかと思いますが、学校も学生にスポーツを頑張って欲しいのです。名前が売れますしね。

学校や学生に対して、外部から刺激を与えていくことは教育の発展のためには必要なことだと思います。