初心者ブログ

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スポーツとの距離感

PLANETS CLUBの入会特典が送られてきてた、。

f:id:naokingdayo:20180819192339j:image思ったより3倍分厚い。思ったより5倍の分量。。

まだほんと始めの方しか読めてない。。

 

でもオリンピックについての話題を読んで思ったのは、国際大会はほんとに人とスポーツの距離感が重要だということ。

 

この前のロシアワールドカップ。日本の予想以上の健闘で世間的には盛り上がっていたけど、

僕的にはそんなに盛り上がらなかった、正直。仮にも小学校から大学までサッカーをしていたのに。

もちろん試合は見たし、試合を見ての盛り上がりはあった。

でも自分が小学生、中学生、高校生のとき感じてたようなテレビにかじりつく感じ。家にいても、早朝で1人で見ていても日本のゴールで熱狂する感じはなかった。

あの時のイメージがあるから、

あれ?ワールドカップってこんなんだっけ。てなった。

 

それは自分とトッププロの距離感が大きく生まれたからだと思う。

子どものときは、自分もワールドカップまでにとは思わなくても、将来上手くなってプロにとか、成長したらこの人たちに近づくというイメージがあったと思う。

単純になんでも盛り上がる子どもだからというより、子どもだからできるイメージが、僕を代表というものに近づけてたんだと思う。

でもいまサッカーから離れて、より客観的に試合を観るようになるとそれがない。もう自分を自分として捉えてしまってるから、テレビの映像が他人事に映る。

 

それとは逆に高校サッカーは面白い。

試合もそうだし、敗退チームの最後のロッカールームなんかは絶対にもらい泣きしてしまう。

それはただ選手の涙に釣られているというよりも、自分が経験したという圧倒的に距離を近づけるものがあるからだと思う。

高校サッカーを経験していない人でも高校生は経験してるし、それだけ人が甲子園なんかも含め高校の部活に熱狂するのはわかる気がする。

もちろんクラブチームのユースの選手権なんかもあるけど、ここは経験したことないし。

 

だからこそワールドカップも、オリンピックも、在り方が問われると思う。

デジタル技術による参加型という表現も本著ではされてるけど(全然まだ読めてないのに語るのはおこがましいけれど、)、そうでもしないと想像力の乏しくなった僕たちはどんどん取り残されていく気がする。もちろんプレーに感動とかはあるけれど、国としての盛り上がりとしては。

 

そういう技術の活用が一般的になれば、今回のワールドカップのような、日本が勝ったからのお祭り騒ぎではなくなっていくと思う。

スポーツの祭典。

スポーツの根源は楽しむこと。

観る人も近い距離感で、始まるときからお祭りの気持ちで楽しまないと。

学生の所属

なんか最近はフリーランスの人が増えたり、

服や車も所有しなくてレンタルだったり、

もう学校もそんな緩い感じでいいんじゃないかなと。

通信制の高校はそういう傾向があると思いますけど、学生が自分たちで各教科のネット授業を受けてテストをパスしたら単位は担架できるはずだし、より良い自分に合った授業を選べるはず。

ブロックチェーンなんかを使えば各生徒の受講状況は確実に把握できるし、

高校はもうプラスαでなにを学べるか。

もっと転校なんかは自由にして、好きを追求できる場になる。

 

それはスポーツでも同じ。

部活に入るというより、色んな指導者を自由に選択できる。

試合をするためのチームもより自由に選べるようにしたらいいんじゃないかな。

 

今の部活って正直、

高校の商売道具に成り下がってる部分が大きい。後はメディアの。

もちろん甲子園や高校サッカー選手権はその物語があるから感動するし、多くの観客を動員するけど、

一競技者からするとあの環境が正しいのかっていうのは難しい。

顧問は神のような存在になるし、

集団の繋がりが強すぎて、そこでの経験は選手を潰すことにもなる。逆も当然あるけれど。

 

後々青春の1ページとして学校も、部活も語ることはできるけど、

所属が青春というのは本来の役割ではないはずだし、高校生のうちから自分の所属場所を自分で選択していれば、それは大人になってから青春できる場を自分で見つけることに繋がると思う。

 

僕らが受けた教育スタイルだと、

所属は自然に決まっていて、見つける力がない。自分の好きなことは、その行為というより所属するメンバーと一緒にいることに左右されていて、

だから会社の所属もなんだか雰囲気で決め、大人になって青春を味わうのが難しい。そりゃおっさんおばさんと新入社員が同じところに所属していても、相当気が合わないと一緒にいても楽しくないですから。

 

働き方や学び方、また物の所有なんかはそれぞれ一長一短なのかもしれないけど、

確実にスタイルは多様になるし、学生が選べる幅も増える。それは良いことだし、必要なことだと思う。

お盆、帰省、センチメンタル

世間はお盆。

そして僕も、お盆休み。

連休を使って帰省してたんだけど、どうもこれがダメだ。なんというか、センチメンタル。一人暮らし先に帰るときにおセンチになる。

 

別にたいして帰省しても面白いというわけじゃない。学生時代の部活仲間に会ったり、僕は私学に通ってて地元友だちはほとんどいないから、後は家で暇してたり。

たぶんずっと実家にいたら、やることない連休だなーなんて思ってただろう生活だった。

 

でも帰省と名がつくと、どうもセンチメンタルになる。これは自分には帰る場所がある的な、プラスに捉えることも当然できるけど、

ただ次の帰省を楽しみにするような、ここが自分の帰る場所であるかのような、そんなメンタルになると、持つべきモチベーションが違ってくる。

今の、淡々と仕事をこなしているような日々。これは案外時間が経つし、なにも考えようとしなければ苦しくもない。

こういう淡々と時間を消費していくことを、肯定するようになってしまうと思う。実家に帰ることを楽しみに過ごしていると。

 

これは人によって捉え方は違うだろうけど、

もし一人暮らし先に自分のやりたいことが渦巻いてて、日々能動的に動いていると、このおセンチな状態にはあんまりならないんじゃないかな。

というかなったとしても、それはそのやりたいことのモチベーションに消化されていくだけな気がする。

 

僕のように淡々生活に不安や不満を感じている人は要注意だと思う。笑

これから帰るけど、次はもっと自分に芯のある姿で実家に戻ってくる。そう決めた。

意識高い系うんぬん

少し前にあるSNSで、意識高い系について書かれているのを見た。

落合陽一も意識高い系について著書で述べていたと思う。

少し気になって読んだ時期もあったけど、今になって見てみると、かなりどうでもよく感じる。

 

なにも考えずに生きることとか、組織に組み込まれることは最近割と悪にされる。

生き方が多様になり過ぎて、

「いつまでそんな仕事で消耗しているんですか」的な謳い文句もよく見るようになったし。

 

でも極論、なにも考えないことが一番楽だと思う。組織に組み込まれるって、めちゃ楽だ。

僕は辛いけど、

 

淡々と過ごす日々に慣れて、なにも考えないことに何も感じなくなったら、それはもうゾーンに入っていると思う。

自分のやりたいことに熱中するのと、ゾーンに入るという観点では大差ないんじゃないかな。

 

僕は昔部活でいっぱい辛い経験をした。自分で自問自答したり、解決策を考えて実行したり。好きなスポーツと組織で活動するために、随分と苦心した。

でも後で当時の話をすると、特になんにも考えずにプレーしてた同期もけっこういる。

学校、部活、宿題。これもルーティーン化されて、捉え方によっては淡々とこなせる。

 

要はもう個人の捉え方だと思う。

その過程で考え方の変遷だったり、物事への慣れとかはあるけど、

なにを大事と捉えるかだけ。な気がする。

 

自分が世間から見て何系とか、あんまりもう関係ない。見せかけだけの意識高い系でも、自分は意識高く社会について考えていると思えれば十分だし、意識低くてもなにも考えないことが楽なら十分だと思う。(もちろん社会発展なんかを考えたら別だけど、)

 

でも個人的には、

常になんか迷ったり、考えたり、ほんの些細なことでも行動してみたり、っていうのはすごい人間的で、すごい面白いと思う。

だから僕は学生のときから部活で悩み苦しんでいたんだと思うし、今も生き方に悩むときもあるんだと思う。

 

「考えるのめんどくさいしー、生まれ変わったら植物とかでいいかなーー」とかいう女子と会ったことがあるけど。

いやいや。斬新過ぎた。

まあでも今も何も考えなくても生きていけるとは思うけど。

悔しさ、絶望感はどこからくるのか

部活してたときは、

そこで誰かより評価されなかったり、負けたり、チームがうまく回らないときに

泣きそうなぐらい悔しかったり、ほんとに身体の力が抜けるような絶望感を味わったりとかよくした。というか、泣いた。

 

でも今のサラリーマンとしての仕事は、今のところそれがない。

 

それはすごい楽だし、毎日あっさり過ぎてくけど、自分でもなにかを求めてるのはよく分かる。

 

あのときの悔しさとか、絶望感はどっからきてたんだろう。

 

やっぱり熱量と捉えることもできる。

でも逆に、それしかなかったからと捉えることもできる。

部活の生活が中心で、それは部活でしか解決できないからそれだけ落ち込んだりしたのかもしれない。

 

今は中途半端に色んな情報を得られるから、

仕事をずっと続けるわけじゃないし色んな知識を得ておきたいなとか、色んな考え方をできるようになっておきたいなとか。

そんな考えが根底にあるから、泣くほどの気持ちにはならないのかもしれないなーと最近思う。

 

あのとき、

こうやっていつか部活は終わるし、色んな考え方をしておこうとか、

そういう気持ちがあったらどんな感情で、熱量で取り組んでいたんだろう。

 

楽になることと苦しむことはなんか紙一重な気がする。

時間的にも精神的にも楽だと、日々は流れていくけど、どこかふと自分について考える余裕が生まれて、日々の生活が正しいのか苦しむことにもなる。

逆に一つのことに熱量を注ぐと、そこの挫折や失敗で苦しむことも多いけど、まあ熱中してるから変な迷いなんかはないし楽かも。

 

僕は学生時代後者しか経験できなくて、その反動で今前者の経験を味わっている気がする。

インフルエンサーからなにを学べるか

最近SNSのおかげで、簡単にインフルエンサー的な人たちのお言葉を頂戴できるようになった。

インフルエンサーというか、彼らにそんなつもりは毛頭ないかもしれないけど、その道を追求することやその過程で、そのような影響力を持った人のことをここでは指している。

 

僕も最近SNSでそういう人たちの情報を積極的にインプットしようとしているけど、

どうも残念なことに

頭が追いつかない部分が多過ぎる、気がする。笑

 

最近では落合陽一を筆頭に大きく取り上げられるようにもなったけど、

彼の言葉の半分も理解していないというか、そもそももう理解しようとしていないんじゃないかな笑

 

だから頭に残るのは興味のある内容か、またはメンタルや行動の過程の部分。

それで十分といえば十分な気もする。

でも結局僕はそこで頭に残ったインフルエンスされた部分を、より稚拙な説明でブログやツイッターに残す。

なんか、それって意味あんのかな。と最近思ってしまう。

自己満足というか、自分が意識高くいろいろ吸収しようとしていると周りにアピールしてるだけのような、

実際半分も確実に理解できてないのにね。。笑

 

そしてそこでいろんな情報を仕入れることができても、多くの人は実生活でなにもできない。

僕はそうだ。

社会の枠組みに収まりきって、仕入れた情報をなにに、どう活かせるかも頭の中をグルグル回って答えが出せない。

 

堀江さんの多動力というのはよく言ったもので、圧倒的にリスクの少ないネット上でしか活動できないわけだ。

 

もちろんこういう活動はしないよりした方が良いのかもしれない。

でも、なんだか、噛み砕けていないというか、消化できていない。

 

だからたぶんこのブログも、歯切れが悪い。。

 

noteのブログで僕は自分の過去を大雑把に振り返っているが、

そっちはかなりスラスラ書ける。もちろん原体験だから。

そういう原体験的なものに根ざして活動したり主張できたりしている人は、そりゃ強いよなーと改めて思う。

 

今の時代を引っ張るインフルエンサーたち。ただ彼らの伝承者になっては意味がないと思う。今どき伝承しなくても、自分で世界に拡散できるしね。

 

いかに自分の原体験と結びつけて、自分を自分自身でインフルエンスできるか。すっごい難しい。でも、できたら本当に楽しいと思う。

ララランド 鑑賞

ブログの更新頻度を上げていこうと思いつつも、

書くことが思いつかん!!

noteのほうでは自分の過去の遍歴を書き始めたんだけど、これはスラスラ書ける、、

でも日常を書くのは難しい、

それだけぼんやり生きてるんだなぁと実感する、

あとなんか、ですます調は書きにくいと分かったので、一旦やめてみます。笑

 

今日はララランドを観た。今更だけど、

Amazonプライム・ビデオ!他の有料なものと比べると圧倒的お得感があるのはなんでだろう。

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グレイテスト・ショーマンを映画館で観てから、少しミュージカル映画に興味を持ち出した。あの歌のときに鳥肌が立つ感じね、なんとも言えない良さだと思う。

代わりにストーリー的には薄い感じもするけど、伝えたい内容がスッと入ってくるから映画通でなくとも分かりやすい。

 

このララランドも、

良いですねぇー、、、

グレイテスト・ショーマンを観て、割とストレートな結末だっただけに、

最後の結末は少し泣きそうに、、(なんか最近涙腺がゆるい)

 

ただやっぱり、ミュージカルは共通の言語として真ん中にどっしりと歌を一曲置いてくれる。それが映画にとっても視聴者にとっても拠り所になってる感じがして、感情移入しやすいというか。

登場人物の妄想的な部分や、イメージを膨らませたものがSF的な形でも入っていて、、まあそれは共感できるできないはあると思うけど、

 

そして劇中の「一生愛してる」という言葉。。泣きそうだ。

結末がどうであれ、永遠にリスペクトして、心の拠り所となって、互いに高め合う存在になるんだろうと思う。

 

そういう意味では実生活でも、

どれだけリスペクトできる人間を近くに置いておくか、というのは大事なことだと思う。もちろん恋愛でも、仕事でも。

SNSなんかで、どんなに大物であろうと繋がることはできるようになった。(あくまで一方的なことも多いけれど)

ただその存在が遠いと、あくまで自分のリスペクトの対象になるだけ。キッカケにはなるが、拠り所にはならないし、高め合うこともできない。

 

自分が行動を起こして、巻き込み、リスペクトできる人間と出会うことは、どんな分野においてもより自分をより充実したものにすると再確認できた映画となりました。(あれ、なんかですます調のほうが書きやすくなってきた、、)