凡人を救う、凡人的天才
そう、作家の西加奈子だ。
「本とかはたまーに読むなぁ。」
「へぇー、すごい。だれの本⁇」
「西加奈子とか。」
「え、西野カナ?」
というお決まりの流れは何度味わったか数知れず。ただまあ、大有名作家さんだ。
今回読んだのは「サラバ」。
いやベタ過ぎるだろ!と言われるかもしれないが、ベタだからこそ面白い。ちなみに読むのは2回目。
本の帯には、
「西加奈子の全部がここにある。」と又吉直樹がカッコよく書いてるけど、まあなんていうか。彼女はそういう重いものを感じさせずページをめくらせてくれる。
主人公の育った場所や生まれた年は作者と同じだし、作者が何かしら大きな意味をもって、自分を映し出してこの作品を書いたのは確かだと思う。でも、それを感じさせない。血肉を注いだ最高傑作だと言わないその文体に、癒され、引き込まれる。
僕らが学生のとき、作家といえば村上春樹だった。頭良くなるよと勧められた読書。そしてなんとなく読んだノルウェイの森。ただあのとき、僕は良さがしっくりこなかった。
というか彼の独特な表現についていけなかった。
そこから僕は学生時代、本を全く読まなかった。
彼の些細な観察力や表現力は、僕を文才のない凡人だと言わしめるに十分だったと思う。
ただ西加奈子は、入り込める。
この作品では「それぞれが信じるもの」という哲学的なテーマになるが、それを感じさせない主人公の人生や、そのテーマを突きつけられてからの怒涛の展開には、息を呑むというか。
彼は自分の過去にその信じるものを見いだすことになるから、些細に人生が描かれているわけだけど、その主人公の受けの姿勢や、学生ならではの悩み。そして転落。全てに共感でき、自分を重ねてしまう。それがこの作品では簡単にできる。
ラストスパートの追い上げも、言わば誰もが一度は感じたことのある哲学的なもの。
人は誰しもどこかに傷がある。そしてそれは多くが、過去の経験からくる。
その心に空いたドーナツの穴のようなものに、主人公の過去の人生とそこに向かい合う様が、スッと入ってくる。
信じるものを、
自分の過去、自分の意思、愛する人、
色々なものに映し出して作中のそれぞれの人生は満たされていく。
自分のこのドーナツの穴は、なにによって埋まるのか。
いやそもそもドーナツは穴が空いているからこそ美しい。過去の経験によって空いてしまったこの穴は、自分のあるべき姿なのかもしれない。
カッコよくまとまったかな⁇
没頭する時代
昨日は小説をカフェで読むという優雅な日曜日を過ごした。そして、小説に没頭した。夢中になった。
そう、、西加奈子に!!
この小説はまだ読み終わっていないので、またの機会になにか書こうと思うけど、、
とにかく久しぶりに別の世界に入り込んだ気がした。夜も寝たくなかった。今日仕事がなかったら、、
そんな気持ちもあったから、なかなか夜寝つけなかったけど、今日はかなり目が覚めてた。それだけ別の世界に入り込むことは、自分をリフレッシュさせるんだと思う。
また、これからその没頭を作り出すコンテンツは増え続けていくはずだ。AIやVRの発達で、もう現実にないことを仮想体験できる。
メディアやスポーツの大会なんかにも、SNSなどを含めるとなにかしらの形で参加することができる。
これまではそうではなかった。
一人一人に寄り添ったコンテンツはなかった。
マスメディアは全体に働きかけ、だからこそ共通の話題を僕らは手にしたけど、没頭できるのはゲームか、たまのドラマぐらい。
後者は週に1時間と時間がかなり限られているし、友だちとの話のタネとして消化された後は、それはもう別の世界なんだと気づいてしまう。放送日になるとまた思い出し、入り込む。
前者は徹底的に悪者扱いされた。ゲームの時間は親に規制されたし、学校でも禁止された。
それでも没頭してるやつは、オタクと呼ばれ蔑まれた。
そんな時代ももう終わりだと思う。
いかに没頭できるか。世界を忘れられるか。それが現実世界での自分の活力になる。
だから仕事に没頭できる、という人はある意味最強だと思う。
ただ、逆にある意味では、天才かつ変態というか、一般的な幸せは手に入りにくいように思う。
仕事は楽しくて、成長したくて、でも壁に当たって悔しさ、苦しさを味わっていくぐらいがちょうどいい。
没頭なんかできてしまうと、もうプライベートが必要なくなる。
もちろん仕事もプライベートも分けて考えるのがおかしいと言う人もいるけど、それは三世代ぐらい先をいってる。いき過ぎてる。
いくら僕らが別の世界に没頭しても、したくても、一般的な幸せと呼ばれるものは現実世界で必要としている。
ここはバランスが難しいけど、この現実世界の一般的な幸せは、どれだけデジタルな時代になってもしばらく僕らにとって幸せだと思う。
仕事を楽しみ、そして苦しみ、他で没頭し、現実のプライベートも生きる。やること多いな、、
でも没頭できるコンテンツができるとそれは容易になると思う。
そういう意味では今の娯楽施設や、飲み屋なんかはしんどくなる気がする。
友だちと飲むことは確かにたのしいしリフレッシュになるけど、あくまで自分の体験をネタにして得られるものであり、仕事やプライベートを完全に忘れてリフレッシュするという訳にはいかない。
たまには馬鹿騒ぎもしたくなるけど。笑
ということで、西加奈子の続きを読みます。。
悔しさを感じたい
社会人になってはや半年。
思うのは、感情の起伏が小さくなってきたなぁ、、、と。
noteのブログにも書いたんだけど、どうも仕事に対する熱量が低い。
だから例えば怒られても、
あー確かに正論だ。反省反省
という感じ。笑
そういう反省や向上心はあるけど、大きな心の動きがない。
仕事以外では、
つい先日フットサルをしてきた。そしてそのときにけっこう上手いやつがいて、ワントラップでかわされてシュートを決められた。
それが悔しくて悔しくて。半年ぶりぐらいに本気で悔しかった。あの野郎、、。マジで腹立つな、、、ちくしょう、
部活やってたときはたしか毎日こんな感情だった。その分部活に入り込み過ぎてるから、メンタル的にはしんどかったけど、今はそれがない。
この悔しさは、
自分が好きなサッカーだから生まれたのか、単純にスポーツの勝負事だから生まれたのかは分からない。そりゃ仕事もできたできないはあるけど、目の前のやつと戦ってるわけじゃないからね。
好きなことを仕事にしてる人も、別にこういう悔しさを日々感じているというわけではないと思うけど、
僕にとってこの悔しさは懐かしくて、恋しい。
それを久し振りに感じたことで、
あーやっぱりこういう感情がないとダメだ。おれ、廃人になっちまう。
そう思った。
悔しさが自分にとっての原動力だと思う。
ただ残念ながら仕事では感じない。学生のときも部活では感じたけど、勉強では1度も感じなかった。
なんだこれは、、どうすれば、、
おれは動物本能的に戦いを求めているのか、、
楽しいとか楽しくないだけじゃダメなんだ。
ブログの価値
このブログも書き始めてしばらく経つけど、なんとなく自分の中での意味が変わってきた感じがする。
始めは
「おっし、なんかカッコいい事書いてアクセス数伸ばして、存在感出せる人間なってやろ🧑」
みたいにイキがってた部分もあった。
でも最近は、
「いやアクセス数なんか増えないし、とりあえず自分の考えとか書いて1人でも見てくれてたらいいやー」
ぐらいの軽い気持ちに。
はぁ、それだけで気が楽。笑
しかも自分で古い記事を辿ってみても、
なに書いてんだおれ?
みたいになるのもある。
それだけ自分の価値観が変わったところもあるんだと思う。
それだけでも意味がある。気がする。昔の考えとか、そもそも今は忘れてしまった感情とか、思いつきとか、誰かに見てもらうというよりは自分を思い返させてくれる感じ。
人によって書く理由は違うけど、
まあ僕は影響力もないし、自由に自分のためにとりあえず書いていこうと思う。
これ読んでまだ書いた事ない人は、書いてみてね。3日で飽きるけどね。笑
いつになく短い記事に。
今日は書くことない笑
ではまた。
流行りの多様性という言葉
最近多様性って言葉が流行っている。いや流行っていると言うと感じが悪いけど、流行ってる。
僕は自分は、考え方の違いや障害の有無によって他人を判断したりしないし、多様性って言葉を使うなら、多様性がある。
と感じていた。
でもこの前スーパーのレジに並んで、店員さんが知的障害のある人だったとき、
違うレジに並べば良かった、と思っていた。そしてそんな自分を否定していた。
結局、もはや雑念の無い聖人ぐらいしか、全ての人を平等に受け入れるなんてできないと思う。
多様性なんて言葉は要はカッコつけているだけで、昔となにも変わってない。
昔から個性が大事とか、
大学で教職科目を選択していても、「個性を活かす教育をしましょう」とか、
その結果はまあ特に生まれていない。
その個性って言葉が多様性に変わっただけ。カッコつけだしただけだと僕は思ってる。
働き方がどうのこうのとか、徐々に生き方の選択肢が増えだしているのは間違いない。ただ同時に、多様性を認める感情が生まれているかというとどうだろう。
僕が多様性という言葉に近いのは、
いかに他人を認めるかということだと思う。どういう人を自分は評価するか。
その自分が評価する人、認める人を徐々に増やしていく作業が、多様性に繋がる。
初めからどんな人でも認めようよ、なんて無理な話だ。評価できない人は、徐々に知っていけばいいし、知っても評価できないならば無理に受け入れる必要もないと思う。
そしてその他人を評価する軸は自分で決めていけばいい。
まずは少ない項目でもいいし、増やせるなら増やせばいい。
僕は今、価値を生み出している人、幸福度の高い人は評価できると思っている。
ただこの幸福度というのは、主観的な判断になるし、難しい部分がある。
例えば障害のある人に対してだ。
多くの障害者が障害を乗り越え、幸せを感じているはずなのに、そのイメージが湧かない。
それは僕がそういう人と関わる機会があれば、しっかりと知っていく必要があると思う。
感動という売り物
今日は甲子園決勝。
でもなんか、スポーツはほとんど観なくなってしまった。今回の甲子園も。今日も観れないだろうなー。
興味のあるサッカーしか観ないから、僕はスポーツが好きということではないのかもしれない。
他のスポーツを観てると、
長い、、時間経つ、、
こんな邪な気持ちが生まれる、くそう、
もちろんサッカー好きじゃない人からしたらサッカーこそそうなんだろう。
でも逆転サヨナラとか、そういうドラマチックな試合はその瞬間を観たいし、高校生の感動シーンは観たい。
要はスポーツを観たいというより、その感動シーンに興味があるんだと思う。
1試合よりも、甲子園のまとめ動画が観たいし。
高校スポーツはそこを売り物にしてるし、(純粋なファンの方すいません、)人を惹きつけるんだと思う。
もちろんプロスポーツになるとその感動の種類は多少変化するかもしれない。御涙頂戴というより、国やチームへの誇りとか、そういう要素も大きくなる。
そういう意味で今回のバスケ代表は叩かれる。
僕はあくまで彼らはスポーツ選手だから、犯罪を犯しているかいないかがポイントになるだけだと思うけど、
でも買春してる人に感動もらえないじゃん、と。感動シーンでも君らのバックグラウンドに買春よぎったら感動半減するじゃん。
特にスポーツのように物ではなく魅せる商売になったらなおさら。いかに観客の感情を揺さぶれるかが商売道具になる。
勝つからファンがつくとか、負けるからファンが逃げるとかいう単純なことではない。
そりゃ観客が身近な人とか、距離感の近い人のほうが感情は動くから、スポーツチームは地域貢献なんかにも精を出さないといけなくなる。
もちろん学生はスポーツが仕事ではないから置いといて、
スポーツ選手は、自分たちは何を売り物にしているかを考えないといけない。
セールスマンは物を売るから、感動という売り物はあくまでもプラスα。まあそこで成績に差がつくんだけど、
スポーツマンは感動を売る。自分たちの戦績やパフォーマンスはそのための道具、プラスα。セールスマンとは逆だ。彼らは感動を売るために日々練習してると捉えたほうがいい。仕事だからね。
ロナウジーニョなんかがしてたトリッキーなプレー。あんなの僕の高校の部活でやって相手に奪われでもしたら、ブチギレられました、、
でも彼は、それにより感動を与え、売った。
各スポーツ選手はなににより感動を売るのか。ファンタスティックなプレーか、真摯なプレーや振る舞いか、はたまたピッチ外の紳士な振る舞いか。
サッカーの本田圭佑のように、その売り物の幅はどんどん広がってると思います。
楽しいは結果論
最近フリーランスになろうとか、自由に生きようとか、
はたまた1ヶ月で収入〜円!とか。色んな肩書きや誘い文句の言葉を浴びるように見る。
いやもちろん魅力的な部分もあるけど、
たぶんこの人たちも、楽しく生きているという一言では片付けられないと思う。
どんなことも続けて技術が上がったり、ましてやお金が発生した時点でシンプルなものではなくなる。
ブログを書くことも、初めは思っていることを吐き出す場だったというのがアクセス数ばっかり気にしだしたり、(僕ははじめからアクセス数は気にしてたけど)
スポーツだってそう。初めは楽しいという当たり前の動機付けだけだけど、勝つためにとか、より評価されるためにとか、モテるためにとか(ここまで完全な外発的動機はないかもしれかいが、)、感情や動機付けは複雑になっていく。
それでも
仕事は楽しいとか、
人生が充実していると言えるのは、
初めの動機付けと、続けるという結果に集約される。
どんな苦しいことでも、始めたきっかけが「楽しい」であれば、振り返ったとき楽しかった経験として処理される可能性は高い。
楽しいから始めた、楽しいから続けてるという感覚が体に染み付いているから。
あとは続けるということ。これは部活とかに圧倒的に言える。
競技レベルが上がったら、ホントに上手いやつ以外は苦しい経験のほうが多くなっていく。僕も個人的な経験だけど、苦しいことのほうが格段に多かった。
でも振り返ると、楽しい。楽しかった。
もちろん途中で辞める決断をした人たちの意見はあんまり聞いたことないし、辞めても楽しかったと言う人も多いかもしれない。
ただあれだけ苦しかったことを楽しいで覆いかぶせるのは、終わりがあるものを終わりまで続けたからだと思う。
楽しいというのは結果論だと思う。そして同時に初めの感情が、最後まで心の芯にこびりついているのも事実。
楽しく始め最後まで続けたものは、途中どれだけ苦しくても楽しい。
過程でどんなに苦しくても楽しいが勝る人もいるかもしれないけど、過程が苦しくてもとにかく楽しいで始めて、楽しいで終わることが大事なんだと思う。