移動ばかりの営業職
僕は営業の仕事をしています。
会社の規模にもよるでしょうが、とにかくこの仕事をしていると、
移動が長い!!
片道2時間程度かけて運転して、1時間弱商談して帰るということもしばしば。
もうあれですね。商談前から疲労しきってます。そんな人ほかにいないですかね、、?
データや物は労力をかけずに移動させられるようになりましたが(物に関してはお金をかけて移動を頼んでいますが、)、人は実際に時間をかけて動かないと移動できない。
もちろん効率的にビデオ通話などで仕事を進めることはできるはずですが、同じモノを売るとしても人によって成果が違うというのが営業のめんどくさいところ。。。
担当者との人間関係や相性が、仕事の進み方に物を言います。
仕事を始めた当初は、なんでこの時代にこんな移動ばかりの仕事をしているんだ、、、と思ってました。
ただどれだけ世の中が便利になっても、この対人の部分だけはどうしようもないのかもしれません。
この面倒な作業を無くすには、それを吹き飛ばすぐらい優秀なモノを生み出し、人間関係なんか度外視しても多くの人が売りたい・買いたいモノを創り出すしかありません。
そういう点では、規模の小さい会社ではしばらくこの営業スタイルは続くと思います。
しかしその言うなれば"昭和スタイル"の仕事も、後々は無くなっていく気はします、。
それだけ優秀なモノを創り出す技術が、徐々に生み出されているからです。
今でもネットで買い物をする人が増えてますし、小売店は苦戦してますよね。。
似た流れは小売店だけではなくメーカーにも起こるのではないでしょうか。
それによりムダな仕事が省かれる反面、優秀な営業マンは不必要ということになるかもしれません。(それが良いことか悪いことかは、営業職の僕には判断が難しいですが、、)
今は小売店と消費者の関係が変わり出していますが、
その他は大きく変わってはいません。
企業は似たようなモノを競争しながら創って、競争しながらプレゼンしていく。
もしかしたら数十年経てば、プレゼンも全てAIが行なっているかもしれない。
そうなったら僕たちはなにをしてるんでしょうね(笑)
機械的な音声よりも人間の声のほうがおそらく聞こえは良いので、AIの横に立ってAIのサポートをしてるかもしれません。
営業職は愛想と声が良い人がなる職業ということでしょうか。(その点は今と大差ないですが、、)
難しい問題ですが、とにかく移動はなんとかしてほしい。
テレビ電話とVR的なもので、遠隔地の人でもその場にいるように話せるシステムを構築しましょう!(笑)
教育による宗教化からの離脱
刑が執行されたことで、オウム真理教の記憶が再び世間を覆っていますね。死刑という処罰に対する賛否両論はありますが、ここでは置いておこうと思います。
宗教というテーマについて僕は素人ですが、人は誰しも何かに取り憑かれるように熱中することはよくあります。それがスポーツだったり、タレントやアイドルだったりと様々ですが、それも宗教的といえば宗教的な気がします。対象が人や物などで大きな違いがあるかもしれませんが、自分が神格化しているものから何か指示を受けたとき、実際に実行する人はどれぐらいいるでしょうか。
人間は誰しもそういった危うさをはらんでいるというのは、宗教に対する素人だからこその考え方なのでしょうか。
そういった宗教化から離れて物事を考えるには、一つの物事を多角的に捉えることが重要だと考えます。主観的だけでなく、客観的に、そしてその客観的も様々な面から捉えるということです。
そしてそれを可能にするのは、間違いなく教育の役目だと思います。
しかし今の教育はその役目に貢献し切れていない。
時代や子どもの変化のスピードについていけていない気がします。
現代は情報が氾濫して、生活が多様化して、人は常にネットと繋がっています。常に誰かに見られていて、そしてその姿を常に誰かに認めて欲しい。子どもはそういった自己肯定感を求めており、今までのように安定や地位は重要な要素ではなくなっているのではないでしょうか。
教育はその変化についていき、子どもの日常生活と繋がった指導をする必要があります。
それをせずに今までのように選択式のテストや暗記を強要していては、子どもはすぐに殻に閉じこもる。
まだ部活動などのように周りと実際に関わり合うようなものを神格化するのであれば社会的に問題は少ないかもしれません。(もちろん卒業後の仕事ややりたいことなどを考慮すると、スポーツをスポーツのことだけ考えて取り組み続けるのには反対です)
殻に閉じこもる方法によっては、後戻りできなくなる可能性もある。
これからの教育はどう進化できるでしょうか。
子どもは興味を持たないと、取り組まないでしょう。勉強して良い大学に入ることの意義が薄らいでいることは誰でも分かります。AO入試の定員が増え、より多様性のある人材を大学が求める時代も近いはずです。
そこについていかなければ高校の存在意義は、ただの青春ごっこに過ぎなくなります。(もちろんこれも重要な存在意義ではありますが、)
多様化する世界で、多角的に物事を捉える力がなければ、より何か一つの物事を宗教的に捉えのめり込んでいく人は増えていくと思います。
これからより重要になっていく教育の進化を望みます。
W杯ポーランド戦
ロシアW杯で日本代表が決勝トーナメント進出を決めましたね。
イエローカードの枚数で順位が決まるなど、色々な意味でポーランド戦は歴史的な試合だったと思います(笑)
結果を見ると、あの状況で点を取りに行くよりもそのまま負けることを判断した西野監督の決断はかなり凄いし、評価されるべきかもしれません。本田選手も言ってましたが、監督としてあの判断を下すのはなかなかできないでしょう。
また長谷部選手の投入で全員が戦い方を理解し、受け入れた組織性や従順性も日本人としての強みではないでしょうか。
ただそれでも国内で多くの批判があるのは、僕たちが見たかったのは、それではないからです。
国民・選手問わず決勝トーナメント進出が至上命題になっている国では、国民に受け止められていたかもしれません。
ただ日本は違う。
国民は日本代表の力を信じてなかったし、それでも期待したのは、もしかしたら世界に衝撃を与えてくれるかもしれないとどこかで思っていたから。
日本代表の選手は口を揃えて、決勝トーナメント進出という目標をまずは達成できた、と述べていますが、
僕たち国民のW杯の目標はそうではなかったのではないでしょうか。
ズル賢さとなかなか縁のない日本では、真っ向勝負で世界と闘うことのほうが、受け入れられるのかもしれません。
もちろんサッカーではズル賢さは重要です。
ただこれはプロスポーツというより、国を背負ったスポーツ。
そのあたりが難しいのかな、と思います。
ドイツサポーターは一次リーグ敗退で涙したり、韓国の選手はドイツを破ってW杯で一勝できたことに涙を流していました。
国に誇りを持って、そこに向き合ってサッカーしていたからこその涙だと思います。
対して日本は、国民と選手でW杯の捉え方が少し乖離しているかなと感じました。
選手は日本代表というチームの目標達成のためにプレーしている、今回のポーランド戦の発言ではそう受け取れました。(日本では普段、なかなか国への帰属意識が低いので、国民と選手の想いが一致するのは難しいかもしれませんが)
なかなか衝撃的な試合でしたが、
こういう戦い方をしてでもとにかく決勝トーナメントに行く!というスタンスが前面に出たのは、日本が世界で結果を残していくための転換点になるかもしれません。
僕自身はじめは批判的にしかこの試合を捉えられていませんでしたが、
監督の決断やそれにより出した結果、今後の日本サッカーの発展を考えると、大きな意味を持つ試合だったかもしれません。
とにかくとんでもなく強国揃いのトーナメントブロックに入りました。
ここからは勝ちか負けだけ。たとえ負けたとしても、僕たちが観たかった真っ向勝負が観られるはずです。
世界に衝撃を与えるかは別として、ベルギーとの試合を観させてくれることにまずは感謝して、期待して待ちたいと思います。
プレーするスポーツの変化
スポーツにはたくさんの楽しみ方があります。そのなかでも自らプレーする、というのが体育や遊びで誰もが経験したことがあり、もっとも熱くなった楽しみ方ではないでしょうか。
ただ、そのプレーするスポーツにも種類があると思います。遊びとしてのスポーツ、部活動などによるスポーツ、そして生涯スポーツです。
子どものときは、家族や友だちの影響で遊び感覚でスポーツを始めます。そのときはただ楽しいから身体を動かし、時間を掛けます。
僕も小学生のときからサッカーを始め、小学生の間はただサッカーが楽しかった。もちろん試合には勝ちたいし上手くなりたいけれど、その目的はサッカーを楽しむことでした。
そこから年齢を重ね楽しかったスポーツを続けていると、部活動での活動がメインになります。
ここで少し方向性が変わり、勝つため・上手くなるため・チームがまとまるためにスポーツをしている感覚が強くなる。
もちろんこの過程では教育的観点を含んでいますから、楽しむだけでなく辛い経験やそれを乗り越える経験は大きな意味を持ちます。
僕自身、高校・大学でのサッカーは苦しい時間が長かったです。(個人的な意見なので、楽しむためにやっていた人には申し訳ない表現かもしれません)
そしてその部活動を超えた先に生涯スポーツがあります。(もちろん部活動だけでなく、初心者の方や体育での経験により、大人になってから生涯スポーツとしてある競技を始める方もおられると思います。)
ただこのプレーするスポーツの流れは、部活動によるスポーツで少し断ち切られている感じがします。
楽しむ、ということよりも人間的教育や勝利に価値が置かれたスポーツ。これが僕たち部活動をしていた人間のプレーするスポーツの大部分です。
もちろんそれを補う??体育の時間や地域でのスポーツ活動はあります。ただ体育で楽しかった競技を、大人になって生涯スポーツとして始めるというのはなかなかハードルが高いのではないでしょうか。
今の部活動を否定はしていません。僕にとって自分自身の核になっています。
ただ、より多くの人が生涯スポーツに繋がれるようにするためにはどうしたら良いか。
それは多くの学生が多くの時間を懸ける部活動に答えがあるように思います。
人間的教育を謳った勝利至上主義や競技力向上だけでなく、少しの時間でも楽しむことへの原点回帰を子どもたちに見せてあげられないかと思います。
人はなぜスポーツをし、辞めるのか
ロシアW杯が開幕して、仕事よりもW杯が気になる人は多いのではないでしょうか。
僕ももちろんその一人で、最近は仕事よりもW杯、W杯よりも母校の試合結果が気になるという日々を送っています。
そこで少し思ったのは、
なぜ多くの人は学生時代、部活動などでスポーツに懸け、そして社会人になれば辞めるのか、ということです。
もちろんお金を稼ぐことに比重が置かれるのは当然ですが、あれだけ熱く取り組んだスポーツから社会人になって離れるという人は多いと思います。
もう僕なりの考えは書いてしまったのですが、それは「熱くなる」ということが人にとって重要だからだと思います。
スポーツの成り立ちは「楽しむ」ということです。体を動かして楽しむこと。それができればどんな競技でもルールでも、スポーツとして成立します。
ただ今の学生スポーツでは、「熱くなる」ということが必須です。楽にこなせる、力が入っていない部活は、真剣に取り組んでいると自負している生徒から見れば非難の対象でしかありません。取り組み方は人それぞれですし、楽しむことができていればスポーツとして成立してはいますが、熱く取り組んでいる人から見ればそれは部活動ではないのです。
僕もそうでしたが、サッカーに熱くなることが重要でした。サッカーは好きだし上手くなりたい。だから学生時代を懸けている。その意識と取り組みが、スポーツをしている学生には重要なのだと思います。
社会人になってスポーツをすると、熱くなるのは試合中だけです。趣味になってしまうと、スポーツに熱くなれる時間が極端に短くなる。だから魅力が薄れてしまうのだと思います。
こういう意識には良い面も、当然悪い面もあります。幾度かブログでも書かせてもらいましたが、学生がスポーツに対し宗教的に取り組むのは、危険もあります。ただその取り組み方で得られるものも多いですから一概には言えませんが、、、
ただ「熱くなる」方法も多様です。
今回のW杯やオリンピックのように、観戦することで熱くなることもあります。実際にプレーする、誰かとスポーツの話をすることで熱くなることだってある。
無限の方法のなかで、熱くなれる方法を見つけることが大事です。
年を重ね仕事ができると、プレーで熱くなれる時間は僅かです。人として生きていく上で、継続して熱くなれるものを見つけていかなくてはと思いました。
シニア世代を教育へ
大企業のシニア世代が、研修や出向という形で地方の企業に赴任する動きが出てきていると、日経新聞で報道されました。
人数が多く、能力を発揮し切れない大企業の人材を地方で活かすという点では、良いアイデアだと思います。地方の企業にとっても経験豊かな人材を得られるのはプラスですよね。
そして同時に、こういう動きが教育に向けられないか、とも思います。
例えば高校で、企業や経済について実際に社会経験豊かな人間からの講義を受けられる時間を月に一度設ける。これだけでも高校生は普段の閉ざされた空間から外の情報を得て、次の進路について考えることができます。
次の進路や将来について、より具体的にイメージすることができるようになれば、今取り組んでいる学業についても身が入るでしょう。
大学は別として(人にもよりますが、頑張り次第であらゆる情報・経験を得ることができます。)高校というのはかなり閉鎖された空間です。
教師や環境によって価値観が固定化されたり、悪く言えば宗教化が起こる。(僕は多くの教育現場でこの宗教化が起こっていると考えています)
企業間だけでなく、企業と学校、特に高校などと連携できれば、より開かれた教育環境になっていくのではないでしょうか。
また学生だけでなく、若い社会人に対しても同様のことが言えます。
各企業はそれぞれの社風に適した人材を、研修等を通して育成しますが、会社の雰囲気や考え方によっては偏った人材が生まれてしまいます。
大企業で経験を積んだ人間が、若手社員に対して(業種や職種に関係なく)講義などを行うことができれば、若い人材がより大きな将来設計図を持って日々の仕事に取り組めるのではないでしょうか。
今や一つの会社に生涯を捧げる時代ではありません。
若手社員が、一つの会社の考え方に縛られているというのは、大きな可能性を潰すことにもなりかねない。
普段の自分の仕事とは関係のない職種の方の講義でも、これからのステージや新たな将来設計図を持つためには、大変重要な機会だと思います。
学生、社会人に関わらず、またこれらかは年齢に関わらず、誰にでも大きな可能性と選択肢がある時代です。
一つの専門的分野でも、長年の経験を積んだ方の話や考え方には、僕たちの可能性を広げる大きな価値があります。
このシニア世代の新たな活躍の場として、学生・若手社会人に対する教育現場を提供するという考え方が、是非広まればと思います。
会社を取り込むか、会社に取り込まれるか
日本人の働く意識として、
多くの人が自分を、「会社のコマ」と認識しているのではないでしょうか。
新人研修においても、「君たちは会社の看板を背負っている。」「会社の名前がなければ君たちは取引先に見向きもされないよ。」というような言葉が使われ、そういった意識は刷り込まれていきます。
もちろんこれらは事実です。僕たち企業人は会社に守られています。
ただこの考え方で働くというのは、正直しんどい。楽しくない。
数字だけが正義で、会議では根性論を語る。生産性のない時間を生み出す一因になっている気がします。
にも関わらず会社は、「お金はお客様から貰っている」、「社会貢献する」というような綺麗事だけは立派に口にします。
もちろんお金の流れを見ると、元はお客様からいただいています。
ただ僕たちからすれば、会社からもらっています。だからこそ会社のために数字第一の仕事をするし、数字を出すために根性論で働く。
現実と理想が交錯して、矛盾を生み出しています。
個人として大事なのは、その会社の意識やシステムに吸収されないことではないでしょうか。
一つの会社に居続けることは、もはや常識ではありません。一つの選択肢、というだけです。
僕たちはあくまでも、これから先自分のスキルを用いて働き続けるために、会社という組織・名前を利用して自分を磨いているというだけです。
そういう人が揃っている会社は、強い。
あくまで自分のために数字を出し、人に意見し・意見され、人を育てる。
就職活動の一年で見極めた会社に対し、完全に忠誠を誓える人は多くはありません。心のどこかで不満はある。
でも、自分のためにその場にいるのならば、そこは気にならなくなるはずです。
働き方改革が叫ばれる時代になりましたが、組織を改革することはとても難しい。
簡単に、各個人が、それぞれの意識を変えることで働き方は自然に変わっていくのではないでしょうか。